現代ビジネスを語る上でよく例えられる戦国時代――。確かに、組織やマネジメントを考えるとき、実力派武将の生きざまの中にヒントを見出すことができます。戦国武将は人心掌握のツールとして、表彰の「褒める・認める」という行為の効果も心得ていました。そこで「表彰工学」では、『戦国武将のトロフィー術』として、現代に通用する歴史の中の表彰にもスポットを当てていきたいと思います。今回は、NHK大河ドラマでも取り上げられた智謀の人物「黒田官兵衛」のトロフィー術に注目します。
秀吉や家康にも一目置かれた戦国武将
黒田官兵衛は、織田信長が天下に勢力を伸ばしつつあった、まさに戦国時代真っ只中の武将です。現在の兵庫県姫路に居を構える地方小勢力の家老という身分でしたが、毛利氏征伐を命じられた織田方の羽柴秀吉にかけて、主家である小寺家を誘導するという大胆な行動を起こしています。周辺のほとんどの地場勢力が現九州を制していた大藩である毛利氏についていたので、今から見れば先見の明がありましたが、どうやら頭の良すぎる人だったようです。先取りしすぎて理解されず、反対勢力に捉えられて1年以上も牢に押し込められてしまうという不運に見舞われてしまいます。しかし、劣悪な環境の中で不自由な体になりながらも生還した強運の持ち主でもありました。
その後、官兵衛は、秀吉につき中国地方攻略担当の調略(主に政治的工作の総称を指す)を担い、織田方の中国地方平定に貢献。直後に「本能寺の変」で織田信長が謀殺されたときも、官兵衛は秀吉に「これぞ殿の天下取りの好機」と囁きナイスアシストします。秀吉が天下をとるきっかけになる「中国大返し」から山崎の戦に至る一連のファインプレーを実現した陰の立役者の一人とされ、その軍師としての力を広く認知されたのです。秀吉だけではなく、徳川家康にも、一目置かれることになった官兵衛ですが、知謀あふれるばかりに秀吉には逆に警戒されてしまったというエピソードもあるので、なんとも難しいものですが……。
家臣や領民から慕われた人柄
調略だの、軍師だの、頭のいい切れ者と聞くと、人間的に冷たそうなイメージですが、官兵衛の魅力はいわゆる軍師として才能だけではなく、その人柄にもありました。よく上司にしたい有名タレントランキングなどがありますが、官兵衛はまさに上司にしたい戦国武将TOP3に入るといっても過言ではありません。
「名将言行録」に官兵衛が人を使うときの大切さを語った言葉があります。「火鉢は夏には役に立たないけれど、冬になれば必要になる。天気がよければ傘は不要だけれど、雨が降ればなくてはならない。人も同じで、そのとき役に立たなくても、別のときにはいてもらわなくては困る者がいる。忍耐強く、大きな気持ちで人を見なくては、人はついてこない」というものです。また、「部下の性質の善し悪し、得意不得意を見極めて、それ相応の仕事をやらせなさい。うまくいかないのであれば、それは主君の不徳である」とも言っています。「くーっ、親方さまどこまでもついていきます!」って、言っちゃいそうになります。人を見る目があり、人を大切にするので、家臣や領民からの信が厚く、慕われていたそうです。そうは言っても、ただのお人好しで物事は進んでいかないと思うので、そこは能力を的確に判断する「抜群の人事力」があってのことですね。
倹約家ながら恩賞は大盤振る舞い
人は認められることで大いに力を発揮するというのは、いつの世も変わらぬようで、官兵衛はそこのところも心得ていました。官兵衛はいわゆるケチで、ウリの皮は厚くむかせて皮は別におしんこ漬けにしたり、魚の骨も捨てずに干して砕いてふりかけにしたりと、細々としたところまで始末するほどの倹約家だったそうです。しかし、ここぞというときの報奨は、まわりが想定する褒美の2倍、3倍相当のものを与えたといいます。褒めるところはとことん褒めるということでしょうか。想像ですが、家臣は「あのケチな親方さまがこんなに褒めてくださっている……」と感激したに違いありません。無駄な金は使わないが、いざというとき、ここぞというときに使うという哲学を持っていました。
こんなエピソードもあります。当時の武将は家臣に報奨の一つとして自分の武具などを譲ったそうですが、官兵衛の場合は金を取ったというので、なかなかのケチぶりといえます。ただ、これには贔屓にならないような配慮もあったようです。買ったとはいえ拝領した家臣は果報に思うし、はたから見れば「どうせ買ったんでしょ」と過度に妬まれないし、なるほど人間心理ですよね。中には、履き古した足袋を払い下げるなんてこともありましたが、「黒田家のため、親方さまのため、よりいっそうがんばります」となるのですから、ここには人を認めて形に表す「表彰」の真髄があるのだと思います。
「我 人に媚びず 富貴を望まず」
その気になれば天下を狙えたのではないかといわれた官兵衛ですが、秀吉を警戒して潔く家督を嫡男・長政に譲り「如水円清(じょすいえんせい)」と名乗って出家・隠居します。その後も徳川家康に服従し、福岡にて読書や歌の道に遊び余生を終えたということです。
「我 人に媚びず 富貴(ふうき)を望まず」と、富や権力に囚われずに自分の道を貫き通した官兵衛。黒田家の歴代藩主は官兵衛の教えを守って質素倹約に勤め、約300年に及ぶ江戸幕府のもとでも大藩としての地位を守り続けました。長きにわたっての繁栄を築いたのは、官兵衛のすぐれたトロフィー術あってこそともいっていいでしょう。