日本社会が不寛容なのはトロフィー不足のせい!?

許せる? 許せない?

Q.ジャポニカ学習帳の表紙の「昆虫写真」は許せますか?
Q.歩きながら読書している二宮金次郎像の「ながら作業」を許せますか?
Q.公共交通機関での「乳幼児の泣きぐずり」は許せますか?

上記の質問に関しては、「許す」も「許せない」も個人の意見としては様々あるだろうということばかりですが、近ごろの日本では「許せない」という声が大きく取り上げられ、他者に対する不寛容さがクローズアップされています。何かにつけて対立構造が浮かび上がり、白黒をつけることで少数派の意見が見えなくなってしまう現代社会……、危機感を覚えませんか? 実は、表彰文化ともかかわりのある「承認欲求」と密接なかかわりがあるようです。今回は「不寛容になりつつある日本社会と表彰」を考えていきたいと思います。

ジャポニカ学習帳は、昆虫の写真が気持ち悪いという子どもがいるという理由で、植物写真の表紙だけにラインナップの変更を余議なくされました。商売上、不人気で淘汰されていく商品はもちろんありますが、一部の否定的な声を取り上げて商品が消えたということで、話題になりましたね。次の「二宮金次郎像」ですが、これもなんと「許せない」という理由から、最近は座って本を読む像が登場したとか……!?  二宮金次郎といえば、薪を背負い歩きながら本を読んでいるというもので、勤労・勤勉の象徴。私の通学していた小学校にもあり、「そこまでして勉強する!?」と子ども心に感心していたものです。子どもへの啓蒙にこそなれ、「歩きスマホ」を増長するだの、「歩きながら読書する金次郎像は、子どもが真似したら危険だから撤去すべき」だのという批判意見が出て、まさか座らせるという事態に至るとは。でも、座って本読んでいたら普通では? みたいな気もしますが、どうなのでしょうか。

公共交通機関で乳幼児が泣くとか、ベビーカーを使うとかも、どうしようもない部分がありますよね。マナーだからという意見に押されてしまっているようで、息苦しくなります。

「炎上」はもはや一般用語

かつてはインターネット上で使われていた「炎上」(非難が殺到する事態または状況の比喩表現)という言葉も、今では一般的に認識されるようになりました。インターネットでの拡散力はすさまじく、非常に個人的な過ちや発言であっても糾弾されている事態が相次いでいます。ひとたび火が付くと、たちまちエスカレート。まさに「炎上」です。簡単には他者を許せない社会になってきていると、ひしひし感じます。NHKの討論番組「不寛容社会」で行われた世論調査を一部抜粋して次に紹介します。

不寛容グラフ

 

出所:「不寛容社会」に関する世論調査,NHK放送文化研究所,2016.05

今の日本社会は他人の過ちや欠点を許さない「不寛容な社会だ」と答えた人が半数近くに上り、「寛容な社会だ」という声を上回っているということでした。「不寛容な空気が広がっているのは、社会から報われていないと思う人が多いからではないか」と心理学者の榎本博明さんは指摘しています。

満たされない承認欲求が根源では?

スマホやタブレット端末などが普及し、SNSなどのサービス環境が充実した現在では、「自分の主張が正しい!」と容易に言える環境にあります。そして、自分の主張が通って何かが変わると、自分が社会を動かした気になれる。いきどころのない報われない気持ちが、解消される瞬間なのかもしれません。大勢の同じ意見が集まることで、非常に個人的なあいまいな基準による主張だということは、個人からは抜け落ちていってしまいます。

ほかの作用もあります。自分の行動が正しかったと判断すると、快感や多幸感を得たり、意欲を感じたりするドーパミンが出るそうです。自分が正しいと思った行動をして認められると、すごく楽しい。それが快感になって、また、同じことを繰り返したくなるらしいです。作家・演出家の鴻上尚史さんは、自分が正義だと思っていることを認められることで、「承認欲求」が満たされているのではないかと指摘していましたが、そのとおりなのかもしれません。

表彰文化で変わる世界も

承認欲求は人間の持つ本質的な欲求ですから、誰しも満たしたいと思うものです。そして、満たされるべきですが、そのための行為が他者を犠牲にしてしまうものであれば問題です。不寛容な社会は、承認欲求を違う方向に求めてしまったがために、生まれてしまったのかもしれません。

承認欲求の満たし方は、意外と簡単です。人は、ほめられたり、認められたりすることで満たされていきます。まさに今、表彰文化の充実が必要なのです。残念ながら日本の表彰文化はまだ認知度が高くありませんが、一人ひとりが表彰の大切さを知ることで、息苦しさを感じる社会も変わっていけるのではないでしょうか。