【歴史編】「家臣こそわが宝」の心意気――徳川家康

戦乱の世を制し、265余年に及ぶ天下泰平を築いた徳川家康。歴史の中の表彰にスポットを当てる『戦国武将のトロフィー術』第5弾では、日本史上でも超有名なこの人物を取り上げます。豊臣秀吉から遺児・秀頼のことを託されたにも関わらず、豊臣家を滅ぼし自ら天下人となった家康には、「老獪な狸親父」といったイメージがつきまといます。しかし一方、少年時代を人質として過ごした境遇を糧に、将来への強い信念を持つ努力型リーダーであった家康は、人の命を大切にした武将でもありました。実は人情に厚い家康のトロフィー術に迫ります。

人質として過ごした少年時代

徳川家康は、三河国(みかわのくに)の小大名である松平氏の嫡男として、天文11年(1542)に生まれています。しかし、ときは松平氏存亡の危機にあったため、その前途は多難でした。東の今川氏、西の織田氏にはさまれた弱小勢力であった松平氏。政略上、家康は3歳のときに実母と別れ、わずか6歳で今川氏の人質として送られることになるという運命に翻弄されていきます。そして、つくづくついていないことに、身内の裏切りにあって反対勢力の織田氏に売り渡されてしまうのでした。

織田氏は松平氏に、家康の命と引き換えに今川氏からの離反を促しますが、家康の父・広忠は今川氏への厚誼から拒絶。家康は見捨てられた形となってしまいました。幸い、命までは奪われず軟禁状態で2年間を過ごした家康ですが、その後、父の広忠が家来に斬りつけられて急死。この時期に織田氏と今川氏の間で人質交換が行われたことで、再び人質として今度は今川氏へと送られることになってしまいます。以来、今川氏の衰退を招いた「桶狭間の戦い」が起こるまで、人質生活は12年間にも及びます。

ただならぬ精神力と執念の持ち主

「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥(ほととぎす)」

機が熟すまで辛抱強く待とう、という家康の忍耐強さを表現した句です。しかし実は、幼年期の家康は短気な性格であったといわれています。今川氏では、今川一門格として優遇され比較的のびのびと過ごせていたというものの、やはり他所は他所。多感な少年時代に複雑な人間関係の中で育ったことが、家康の忍耐力や人間性に影響を及ぼしたのかもしれません。ちなみに「鳴かぬなら殺してしまえ時鳥」は織田信長の強引さを、「鳴かぬなら鳴かしてみしょう時鳥」は豊臣秀吉の積極性を表した句ですね。

松平氏当主が不在のまま、成人しても今川氏にとめおかれた家康でしたが、元服の折に故郷の岡崎に一時帰ったときのエピソードから家康の人となりが窺えます。今川氏の属国となった松平氏は貧窮し、家臣たちは農民といっしょになって農作業をして食いつなぐありさまでした。家康はその状況をすぐに理解し、家臣たちに自分の至らなさを詫びて涙をこぼしたそうです。後年に「家臣から恐れられるようではいけない。慕われるようでなければ本当の大将とはいえない。」との家康の言葉がありますが、人の気持ちを推し量り、相手の立場を考えた上での行動ができる人でした。また、戦国武将には珍しく、武士だけではなく、庶民の命も大切に考えていたといわれます。ただ、公人としての立場に軸を置くがために、私人の部分では、長男信康や正室築山殿を自ら手にかけることも行っています。

信長と秀吉の成功を影で支えながら、虎視眈々と天下を狙っていた家康。人情深いのか、はたまた非情なのか……。ただならぬ精神力と執念を持っていた人物と言えます。

強固な武士集団を形成した手腕

「桶狭間の戦い」をきっかけに西三河をほぼ平定するに至った家康は、今川氏から完全に独立して大名になります。一向一揆に苦しめられつつも、織田信長との同盟を結び、着実に足元を固めていきます。いざというときにも動じることなく対処する家康の姿は家臣たちの心をつかみ、強固な武士集団を形成していく元となりました。後に「家康に三河武士あり」として、三河武士の勇猛ぶりは広く知られるところになります。

三河武士の結束力の強さ、家康への忠誠の固さが表れたエピソードの一つに「三方ヶ原の戦い」があります。武田信玄のおびき出し戦法に引っかかり、わずか2時間ほどで自軍が総崩れし多くの家臣を失った家康。死をも覚悟する事態となりましたが、家臣たちが次々に家康の身代わりとなったため、命からがら逃げ帰ることができたといわれています。家康は、このときの敗残の姿を、終生、忘れまいとして「顰(しかみ)像」を描かせ残しています。いつの時代の人も、自身の屈辱的な姿には目をつむっておきたいものだと思いますが、つらく苦い経験をあえて教訓とする家康の人柄が家臣たちの共感を生んだことは想像に難くありません。

「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」

人の心をつかむのが得てならば、それぞれの個性を活かした人選も巧みでした。「三河三奉行」を置いたときは、あえて三者三様に個性のある3名を抜擢し、月ごとの番としています。お互いを競わせることで相乗効果を狙ったものでした。また、門閥よりも能力を重視した適材適所の登用を行っています。滅びた大名の遺臣たちも能力があれば重要なポストを与え、徳川家臣団内部にうまく取り込むといったこともしています。

ブレーンを多く持ち、さまざまな意見を聞き、家臣に任せた家康。軍評定の場は基本的にフリートーキングとした家康は、もっとも人材を活かし、使った戦国武将といえます。また、「手柄を立てる家臣たちがいて今日の私がある」という意識や、名のある茶道具を蒐集する豊臣秀吉に宝物を見せろと言われて「私のために命を捨てる家臣たちが宝です」と答える人への信頼感こそが、家康ならではのトロフィー術なのでしょう。一人では大きな組織を動かしていくのに限界があります。家康はこのトロフィー術で、世界史にもまれな265余年に渡る幕藩体制を確立したのです。

「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし――(以下、略)」

家康の遺訓として知られる一文ですが、実はあの水戸黄門の教訓をもとに後世に作られたものだそうです。とはいえ、家康の信条をうまく表していることは確かです。現代に生きる私たちにも、一歩一歩着実に進むことの大切さを教えてくれているのではないでしょうか。