「もらう」トロフィーから「あげる」トロフィーにする理由

「トロフィー」とは不思議なモノで、話題に出ると、たいてい「もらったことある!」とか、「もらったことないんだよね……」といった流れになります。やっぱり不思議ですよね? 何がというと「もらうもの」っていう固定概念があることです。テイクがあるなら、ギブもあるはず。トロフィーを「あげる」という発想があってもよいのではないでしょうか。改めて、なぜ、あげることに注目するのか? について考えてみました。

近代スポーツ振興に見たトロフィー「もらう」事情

トロフィーは主に近代スポーツ振興を通して日本へ持ち込まれた文化です。昨年のNHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』で日本のスポーツ黎明期が描かれていましたが、今に続く近代スポーツが日本へもたらされたのはドラマの舞台になっていた明治期。のちに「日本マラソンの父」と呼ばれる金栗四三(かなくりしそう)がオリンピック国内予選の優勝カップを手にする場面がありましたが、これは史実どおりのお話で、1911年(明治44年)のことだそうです。

近代スポーツへの関心は徐々に高まっていきました。しかしその後、日本は軍国主義への道を突き進み、日中戦争や第二次世界大戦へと突入。1940年(昭和15年)に東京招致が決まり、盛り上がりを見せていた東京オリンピック開催は“幻”となってしまい、スポーツ熱も下火になっていったのでした。「平和の祭典」であるオリンピックの開催は、対内的にも、対外的にもとうてい認められるものではなかったのです。いつの世も、スポーツと戦争は対極にあるといえます。

軍国主義の行き着いた先は悲惨なものでしたが、ようやくそうではない戦後を迎えたことでスポーツは、日本復興とともに広く普及していくことになります。競技大会では、トロフィーや優勝カップ、メダルといった表彰品で勝者を称えるという文化が日本に広まり、それに伴ってわれわれ表彰業界も大きな発展を遂げました。昭和30年代後半から爆発的な人気を博したボウリングのブーム時には、トロフィー販売による成金業者まで誕生したほどだそうです。

そして、高度経済成長の波に乗って1964年(昭和39年)に開催されたのが念願の東京オリンピック。この日本中が湧きたったスポーツの祭典によって、スポーツ=トロフィー=勝者の証という概念が日本人の意識に浸透したのはないかと考えます。「トロフィーは頂点を極めた人がもらうもの」は、このとき日本中の共通認識となったのではないでしょうか。

時代はあまりにも変わりすぎた……

それから時を経て昭和から平成、そして令和の今は、コロナウイルス感染拡大という世界的なパンデミックの渦中にあります。何せ人と人との接触でうつるとあって、2度目の東京オリンピックまで中止となってしまった……。またも! です。ありえないような、想像もつかないようなことが現在進行形で起こっています。

コロナ禍で世界中どこもかしこも大混乱です。ドラマ好きの私としては、NHKの大河ドラマや朝ドラの長期休止にまず驚きました。これは大変なことになっている、と。各局、新作ドラマの制作が延期する中、過去の名作ドラマがいくつも放映されたので、これはこれで楽しんだのですが……、いつの話しだ? 現在とはかけ離れたドラマの世界観に息をのみました。隔世の感を禁じ得ないというのは、こういうことを言うのだと思いました。懐かしいというか、チンチンジャラジャラザブザブと、みんながみんなこの先の繁栄を疑わない1億総パリピ社会。バブル期は確かにこんな時代でした。正直、羨ましいような気がするけど、数十年どころから、パラレルワールドの話じゃないのかと思うほど別世界です。もう戻れないのがわかりました。

国も言っていますが、実際に多くの人が感じているように、私たちは新しい暮らし方、新しい世界を作る必要があります。トロフィーのあり方だって、「何かを極めた人たちがもらうもの」でいいのだろうか? 変えていかなければならないと、トロフィー生活は考えています。

今すぐにできること。「もらうから“あげる”へ」

博報堂生活総合研究所の「第4回 新型コロナウイルスに関する生活者調査」(2020年7月)によると、新型コロナウイルス感染拡大に伴って「経済の停滞に不安を感じる」と回答している人が83.1%おり、6月の同調査からほぼ横ばいで推移しているとありました。

社会全体に余裕がなくなっているようです。こういう時は、弱いところへ、低いところへ負のしわ寄せがいってしまうもの。余裕のあるなしで周囲への対応が変わってしまったという経験を誰しも持っているのではないでしょうか。気持ちや金銭的な余裕があれば他者への気づかいや、経済への貢献、福祉的な行いに想いがいきます。しかし、そうでなくなると、他者へはもちろん、自分に対してもプラスの感情を維持できなくなる……。SNS上で、匿名で他者を非難する行為が問題となっていますが、それぞれの余裕のなさの表れなのかもしれません。

“3密”系のイベントが減っていること、不要不急のものでないことで、存在自体すら脅かされているトロフィー。しかし、こんな時代だからこそ、トロフィーの効用に目が向きました。トロフィーはただ勝者を称えるだけではなく、人を肯定する力を持つツールです。自己肯定感が大切なのは周知のとおりです。人々の気持ちに「余裕」を補えるのではないか? と。

しかし、トロフィーをもらうきっかけが限定されているために、誰でももらえる訳ではないのが難点です。そこで、考え方を逆にしてみました。「ありがとう」「いいね」「感謝」のちょっとした気持ちをトロフィーにしてプレゼントするのはどうでしょうか。もしプレゼントされたら、自分を認めてもらえたと感じて、やさしい気持ちになれると思うのです。

「施されたら施し返す、恩返しです」

そもそも日本人は感情や行動を抑えがちな傾向があります。例えば、部下のプレゼンのできがよかったとき、素直に「よかったよ!」と声をかけられなかったり、さりげないフォローに感動しても「うれしかったよ。ありがとう」という言葉にして伝えなかったり。なんとなく心当たりがあるのではと思いますが、小さな親切に対して感謝の言葉を口にできる人はなかなかいません。もちろんこれは感謝や感動が足りないわけではなく、それを言葉にする習慣が根づいていない、ということでしょう。

「施されたら施し返す、恩返しです」

今クールの視聴率トップを走るTBSドラマ「半沢直樹」での大和田常務の名言です。倍返しだけではなく、恩返しも連鎖します(ドラマを見ていない方、すみません……)。トロフィーも「もらう」という発想から、「あげる」への思考変換で、どんどん前向きな気持ちが広がっていきますようにと、願ってやみません。トロフィーは「もらうから”あげる”へ」を広くお知らせしていきたいと思います。

 

■参考文献:「徽章と徽章業の歴史」(著/山田盛三郎)