戦国時代に天才的な戦略手腕で甲斐(現・山梨県)武田家の名をとどろかせた武田信玄。歴史の中の表彰にスポットを当てる『戦国武将のトロフィー術』第6弾では、現代でも有名&人気な戦国武将のひとりに数えられるこの人物が主役です。信玄は戦上手とはまた違う顔を持っていました。知性派で感受性が豊かだったといわれる信玄は、よく人を見てよく話を聞くタイプ。人を扱うことに長け、人を大切にしたため、家臣や領民の強い信頼を得ていたのです。多くの才能を引き出し、甲斐という国を大きく発展させた武田信玄のトロフィー術に迫ります。
NHK大河ドラマで歴代視聴率2位
「今宵はここまでにいたしとうござりまする」
これは1988 年の流行語に選ばれた言葉で、発信元はNHK大河ドラマ『武田信玄』。語り役でもある信玄の母・大井夫人(若尾文子さん)の締めのセリフです。もう30年も前になりますが、NHK大河ドラマの視聴率が40%近くあったころでした。ご多分にもれず、わが家も家族で視聴していたわけですが、調べてみると、主役の信玄を演じた俳優の中井貴一さんは当時27歳だったのですね。晩年の老け役も違和感なかったので、20代だったとは驚きです。これぞ役者力!?
そして、なんとこの『武田信玄』は年間平均視聴率で大河ドラマ歴代2位の39.2%だとか! ちなみに前年の伊達正宗をテーマにした『独眼竜政宗』が歴代最高の39.8%を記録しているそうです。信玄公のおひざ元という土地柄、武田信玄に特別な尊敬と親しみを持っている山梨県では、放映当時、日曜日の夜8時に外を歩いている人間はほとんどいなかったという話らしいですよ。ドラマの展開や構成自体がよかったというのもあるかもしれませんが、武田信玄という武将自体の魅力もあったのではないかと思います。さて、どんな人物だったのでしょうか。
父を追放――無血クーデター
武田信玄(幼名は武田晴信でしたが信玄に統一します)は、甲斐源氏の一族で嫡流とされている名家・武田氏の嫡男として1521(大永1)年の甲斐国(現在の山梨県)に生まれました。ときは幕府の権威失墜から始まった戦乱の世である戦国時代の真っ只中。父である信虎は、分裂状態にあった甲斐国を再統一し、着々と足元を固めつつありました。ただ、信虎は武将としての力は相当にあったようですが、残忍酷薄なところがあって治世の面では評判がよくなかったようです。
嫡男として生まれた信玄にも矛先が向けられていました。幼少より聡明で「武」よりも「学」を好み、理屈っぽい子どもであったといわれていた信玄。権力を振りかざし専横政治を行う父に対して、理想主義を掲げる信玄は生意気な存在となっていたという見方があります。信玄が成長するにつれ、信虎はことごとく辛くあたるようになり、ついには次男・信繁に家督を譲ると公言するまでになります。実際に、駿河の今川義元のもとに預け廃嫡を企む父。信玄はいよいよ父との対決を考え始めています。
しかし、下剋上の横行していた戦国時代であっても、儒教的土壌にあった当時の日本では子が親を追うことなどは許されない行為とされていました。信玄は逡巡の上、重臣たちに相談。日頃より、諫言した重臣たちを殺害したり、大した理由もなく家臣や領民を斬り捨てたりするなど、異常さが目立つ信虎の行いをこころよく思っていなかった家臣団からは信玄への同情が一気に集まります。理想の王道国家をつくりたいと夢見る若き信玄に救世主を見たのかもしれません。廃嫡の準備を進める信虎の裏をかくように、信虎排除のクーデター計画がひそかに練られていきました。
そしてついに、信玄を今川義元のもとに預けようと自ら駿河に赴いた信虎の帰国を阻み、若干21歳にして甲斐国主に納まったのです。近隣諸国の思惑もさまざま絡んでの展開ですが、駿河の国に信虎を隠居の形で追放した無血クーデター。当時の社会常識から逸脱した信玄の行いに周囲からはバッシングが多々あったそうですが、現代の感覚からいえば、当たり前の政権交代ではと思います。そもそも父親を亡きものにしたわけでもありませんし、血を流さなかったという信玄の優れた政治手腕がここにあるような気さえします。そして信玄はこの後、武力ではなく政治力で国を治めることをめざすのでした。
先見性のある政策
信玄は国主となってすぐに施政方針として次の4つのことを宣言しています。
①人事の刷新
②甲斐の法律策定(武田法度)
③産業の振興
④信濃(現在の長野県の大部分にあたる地域)の平定
何をすべきかすでに見えていたのですね。現代でも、いざトップに立ったり、当選したりすると、自分の都合のいいように方針を変えてしまう人もいますが、信玄はこれらの方針を終生において自ら厳格に守ったといわれています。4つめの敵対する国についてはその時々の情勢で変化していきますが、ほかの3つについては「違反があれば指摘してくれ。改めるから」といった信玄のお触れも残っているとか。リーダーとなった信玄の姿勢を見て、家臣や領民がまとまっていく様がわかるようです。信玄は後世にも残る画期的な政策をいくつも打ち出しているので、もう少し詳しくみていきましょう。
◆合議制を取り入れる
戦が起こって軍議をするなど決めごとをするときには、今でいう「会議」を盛んに行いました。家臣たちの能力を最大限に引き出すための、まずは議題についての意見を自由に述べさせて、信玄が意見をまとめ上げて、場にいる全員が納得するよう決定を下します。こうした方針もあって、甲斐国では意見具申や諫言が盛んに行われるようになります。家臣たちのやる気が引き出され、甲斐国繫栄の原動力となったのではないでしょうか。当時としては高い水準の教育を受けていたという信玄だからこその発案ともいえますが、超ワンマンだったことで衆人の心が離れていってしまった父・信虎を反面教師としたというのもあるかもしれません。
◆20年にわたる治水事業「信玄堤」
信玄が国主となった時点での甲斐国は、甲府盆地の大半が湿原地帯。上流地方も水路灌漑が未整備で農作物の育ちにくい貧弱な土地だったといいます。本来ならば笛吹川と釜無川、支流の御勅使川(みだいがわ)などの恩恵による堆積盆地で、豊穣な水田地帯となるはずでしたが、たびたび氾濫し水害をもたらすばかりでした。護岸工事や築堤工事は毎年行われていましたが、うまくいっていませんでした。
しかし、甲斐国を強くするためには、まず豊かにしなければならないと痛感していた信玄は、革新的技術の導入を模索し始めます。翌年には、一番の難所といわれている釜無川上流の御勅使川と笛吹川の合流地点に、腰を据えて強固な大堤防をつくることを決意しています。想像以上の難工事のため試行錯誤を繰り返しましたが、20年もの歳月をかけてついに分流工事と築堤工事を完成させています。この「信玄堤(しんげんつつみ)」の完成によって甲府盆地は、甲州の穀倉地帯という役割を担うまでに発展したのです。信玄の凄みは、失敗に終わっても原因をとことん研究・検討し、さらに別の理論や新技術を導入し再挑戦をし続けるところです。信玄のこの合理的な思考は合戦でも発揮されていくのでした。
◆軍資金は金山経営でまかなう
治水による農業生産拡大を図るとともに、山岳資源である金山経営に積極的に乗り出します。特に「黒川金山」からとれた金は高く評価されて、信玄の軍資金となり、戦功褒章や軍需物資の買い付け、贈与、寄進などに用いました。また、貨幣制度を整備し、碁石金の通称で知られる「甲州金」として甲斐国内で通用する金貨を鋳造しています。これは、のちに江戸時代の貨幣単位のモデルとなったといわれています。
黒川金山は信玄支配以前にすでに開発されていた歴史がありましたが、採鉱技術が未熟であったため特に注目されていませんでした。しかし、この一帯を信玄が支配した際に起用された大久保長安によって一挙に黄金の産出量が増加した経緯があります。信玄の新技術導入に対する熱意によって、甲斐の経済力は強まっていくのでした。
国を支える根本は人材であるという信念
信玄の時代になり、信濃(現在の長野県の大部分にあたる地域)、駿河(現在の静岡県中部あたりの地域)・美濃(現在の岐阜県の一部の地域)の一部と領土は拡大し、経済振興によって甲斐国は豊かになっていきました。経済的な力もつけて戦国最強と謳われた武田軍団。しかし、当時の戦国武将としては珍しく本拠地である甲斐をはじめ領内に、堀や石垣、天守を備えた城を建設していません。城には大名の力を示したり、合戦のときには司令基地となったりする役割があるので、多くの武将は築城を試みています。ところが信玄はあえて城を造らず、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)という館で、すべての政務や軍務をこなしたことで知られています。これには、国を守り支えるのは人民の力であるという思想・哲学を持っていたからといわれています。
◆衆心を城と成す教え
信玄の信条を表す有名な言葉が残っています。
「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」
人民こそが城となって国を守るのだから、最も人を大切にしなければならない。情けは人の心をつなぐが、仇は心を離れさせてしまうと説いています。その言葉どおり、信玄は一生、堀一重の館に住み堅牢な城を築きませんでしたが、人心掌握には常に心を配っていました。武田軍が最大規模のときは総兵力約5万人。さまざまな人が集まってくる中、人材管理を徹底してやっています。信玄一人でやるのではなく、大綱を決めて重臣たちに任せるという具合です。家臣を信頼し、任せるといった信玄の姿勢もまた、家臣たちの結束を強めていったのでしょう。事実、信玄の生涯を通じて、敵に甲斐の地を踏ませることはありませんでした。また、追放した父・信虎には終生、生活費などを送金していたといわれています。そこに、自らの権力欲のために行ったのではないという、信玄独自の思想が見てとれるのではないでしょうか。
◆実力主義の人材登用
人材の選び方、使い方も信玄ならではの視点がありました。父・信虎の時代には武田一族を中心にして一握りの権力者に国政が委ねられており、戦国時代ではそれが一般的でした。しかし信玄は「自分の好みの部下だけを使ってはいけない」としています。好き嫌いの感情だけで人を選んでしまうと、好みに合わなければ優秀で役に立つ人間を遠ざけてしまうことになる。そうではなく、人ではなく、その人の能力を見て使うべきだと言い切っています。そして実際、人材を登用するにあたって年功や出身は重視せず、他国から新しく召し抱えられた者、浪人していた者、農民出身の者など、実力主義で採ったことで知られています。
また常日頃、それら家臣たちに「何でも進言するように」と言っていました。違う意見であっても、相手のいうことによく耳を傾けることで、意見しやすい環境を整えています。ほかにも、成果を上げた家臣にはすぐに報酬で応える、大きな失敗をしても新たなチャンスを与えるなど、部下を認めて、ほめることにより最良の組織を作り上げていくという、今でいうチームマネジメントを実践していました。離反者がでることなく、一丸となって戦う武田軍団は信玄のいわゆるトロフィー術によって作られていたのでした。
◆若い世代の教育を重視
一方、幼いときからの教育が自身をつくり上げたという認識のあった信玄は、若い武将の育成にも熱心でした。「幼少に受けた教育の感化で良くも悪くもなるものだ。特に声の変わる時期が重要だ」といって、近習の武将には特に重点をおいて12歳くらいの少年時代から集団教育を施しています。信玄自ら若者たちと話す場面もあったようで、その際には一人ひとりの素質や個性をじっくり観察し、登用の判断にしたといいます。
徳川家康の世に「武田じたて」として
信玄は52歳で没するまでに130余りの合戦をこなしてきました。戦に強く戦国最強と謳われた信玄ですが、「大勝ちするより負けないように」が信条だったそうです。圧倒的な大勝利を収めてしまうと次には油断して負けてしまう、戦いにおいては調子に乗り過ぎないようにと自他を戒めています。
それにしては勇ましい武田軍の旗印「風林火山」ですが、中国の孫子の兵法からきているそうです。「はやきこと風のごとく しずかなること林のごとく しんりゃくすること火のごとく うごかざること山のごとし」の意味で、まさに戦いにはやる軍団を思い起こさせます。しかし実際には「国を大きくする手段は合戦で勝つことだけではなく、他国の民衆を懐柔して味方につけるなどの計略も重要」と次が続くそうです。全体の意味としては、「戦わずに相手を屈服させることこそが最善」と説く孫子の精神を示す言葉なのです。事実、信玄は部下の戦死を嫌っていました。「もし敵を討ち取ることができても、訓練した武田の武士を何人も死傷させてしまったのでは負けである」との考えを持っていました。歴史にたらればはないといわれますが、信玄がもう少し長く生きていたら歴史は変わっていたのでしょうか。ただ、自分の寿命、跡継ぎの問題を見誤っていたこと自体が、信玄なきあとの武田家滅亡の歴史をすでに決めていたのかもしれません。
徳川家康の「武田じたて」という言葉があります。家康が天下をとったときに、兵制を中心に民政に至るまで武田信玄をなぞっているところからきているそうです。戦国時代、家康の最強の敵であった信玄は最高の師でもあったというわけです。
次の時代に活かされるほどの優れた治世を施していた武田信玄。戦国の世であっても、好き嫌いで人を選ばず能力や実力を見極め、認めてほめるということを心がけ人材を大切にしたからこそといえます。優れた人材を生みだすトロフィー術を実践していた武田信玄のマネジメントを、私たちも徳川家康にならって大いに参考にしてはいかがでしょうか。
参考文献:
新田次郎・堺屋太一・上野晴朗 ほか(2007)『風林火山の帝王学 武田信玄』プレジデント社