歴史の中の表彰にスポットを当てる『戦国武将のトロフィー術』第4弾では、豊臣秀吉配下の最有力武将の一人であった加藤清正に迫ります。数々の武功を挙げた勇ましい姿や虎退治といった勇猛果敢なエピソードで語られることも多いのですが、実は誠実で細やかな気づかいのできる人物であったといわれます。そのトロフィー術も繊細でした。
熊本の「清正公(せいしょこ)さん」
大阪で親しみを込めて豊臣秀吉を「太閤さん」と呼ぶように、熊本(旧肥後)では加藤清正を「清正公(せいしょこ)さん」と呼ぶそうです。これは、清正による肥後の統治が実績を挙げて領民に認められたことによります。清正が入国したのは天正16年(1588)。当時の肥後は、度重なる一揆によって領地が荒廃していました。しかし、築城の名手でもあった清正は、治水・灌漑事業にも優れた感覚を持っていて、さまざまな政策を推し進めていきます。
清正は事業を進める上で、川守や年寄りの話しを聞き、土地を入念に調べ、川下に住む人々にも気を配ったといいます。工事には多くの人手を必要としましたが、農閑期に行うように計画し、賃金の支払いもしっかりしていたため、民衆も喜んで協力しています。また、部下たちの意見にもよく耳を傾けていたといいますから、豊臣家の武断派として軍務を担ったのとはまた違う一面を持っていたのでしょう。清正が経済の礎を築いたことで肥後は大きく発展したのでした。
豊臣秀吉の子飼いの家臣
清正は加藤清忠の子として、永禄5年(1562)の尾張(名古屋市)に生まれました。幼少のときに父を病でなくしますが、教育熱心な母に育てられています。この母と、豊臣秀吉の母が血縁関係にあった縁で、清正は10歳前後のときに後の豊臣秀吉になる木下藤吉郎に仕えることになりました。体力と知恵を持ち、武芸にも秀でていた清正は、秀吉から我が子のように可愛がられたといいます。清正は秀吉から人の扱い方や戦の駆け引きなどを学んでいったのです。
長じてからは、秀吉の家臣として数々の功名を挙げています。秀吉が天下に手をかけることになった天正11年(1583)の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは、目覚ましい戦功を立て「賤ヶ岳の七本槍(しちほんやり)」の一人に数えられました。その後、所領を与えられ部隊長格に昇進。さらに天正13年(1585)に関白になった秀吉は、清正を大名格へと出世させます。清正は28歳にして大名として肥後を治めるまでになったのでした。
部下を見る目は確か。清正の適材適所論
秀吉の勢いに乗じて大名へと上り詰めた清正ですが、部下たちを統率する力はなかなかのものでした。ある負け戦でのことです。味方に勝ち目がないのを悟った清正は、連絡将校として庄林隼人に軍の引き上げを命じました。しかし、勇将と謳われていた上席の連絡将校の森本義太夫が憤慨してしまいます。本来であれば、自分の任務ではないかというのです。そのとき清正は、「お前たちは同じように大切な私の家臣である。その器に適したところで使う」と声をかけたといいます。
実際、今回のような負け戦で軍勢を引くときは、犠牲者を最小限に抑える慎重さが求められます。適材適所を心得ていた清正の当然の采配として、物事を慎重に運ぶ部下を選んだということだったのです。それを言葉にして相手の納得するように伝えるところが清正の人望のあるところでした。行き届いた説明と、「おまえは勝ち戦向きだ。そのときは頼む」という言葉を添えることで森本の面子も立ち、多いに感激したといいます。適材適所は成果を出すための基本ですが、本人が納得しなければ成果もなにもあったものではありません。さりげないフォローができる清正はきめ細やかな人物だったといえます。
清正が「ほめる」ことの効力をよく知っていたと思われる逸話がほかにもあります。1日の終わりにその日のことを振り返るために、長くトイレにこもる習慣があった清正。ほめることを思いついたら、その部下をトイレに呼びつけて(!?)ほめていたとか。トイレにまで呼びつけられてもとは思いますが、それほど「ほめる」に重きを置いていました。
ほめることで人の心をつなぐ
清正には加藤家の三傑と呼ばれ、秀吉からも武勇を讃えられた飯田覚兵衛、森本義太夫、庄林隼人の3人の忠臣がいました。このうちの一人である飯田覚兵衛が晩年に残した言葉が清正をよく物語っています。
覚兵衛は戦いに出て、同僚たちが戦死する様子を見て「武士をやめたい」と何度も考えたようです。しかし、そのことを清正に伝える前に、清正の方から「今日の働きはよかった」とほめられて、恩賞ももらい、長々と時を過ごしてしまったというものでした。
覚兵衛は武勇に優れていた上に、土木普請にも長けていました。熊本城の築城でも随所に才覚を発揮。特に「飯田丸五階櫓」は覚兵衛が建設を行い、守備を担当したことが由来となって名付けられたといいます。覚兵衛は生涯にわたって清正を守り支えていったわけですが、清正がタイミングを逃さずにほめていたからこそ続けていられたのですね。ほめるということは、人の心をつなぐということがよくわかるエピソードです。
改易とはなったが後世に名を成す
秀吉が没した後、豊臣家臣の内紛から関ヶ原の戦いでは徳川方の東軍についた清正。徳川家への忠誠を誓いつつも、豊臣家への恩から秀吉の遺児・豊臣秀頼を補佐しようと努めています。しかし、道半ば享年50で病没。清正亡き後、後が継がれるも幕府によって改易され、加藤家は消滅することになったのでした。
加藤家は改易となってしまいましたが、熊本には現代でも日蓮宗本妙寺と加藤神社など、清正公を祭祀している清正ゆかりの地がたくさんあります。清正自身の信仰が深かったということもありますが、庶民にそれだけ慕われたという証でもあるのでしょう。
話しは逸れますが、熊本の「熊」は、もとは「隈(隅)」の字が当てられていました。なぜ改称されたかというと、清正が「隈本より熊本の方が勇ましかろう」と言ったとか。清正がいなければ、あの「くまモン」もなかった!? くまモン人気で熊本がさらに周知されたことを考えると、清正はやはり熊本の清正公さんですね。