秋ですね~。今年もあと3ヶ月で……今年も終わります。夏が過ぎると日が短くなるせいなのか、年を重ねるせいなのか、あっと言う間に年末がやってくる気がするのです。でも秋は一番好きな季節……紅葉の美しさはこの目で感じよう、長い夜シネマの世界に心酔しよう、味覚の秋は大好きなウイスキーとともに楽しもう…..
今年の秋は今年しか感じられないのだから…..と、ひとり物思いにふける10月の午後です。
さて、前回⑤は、リアルタイムで㈱立川徽章の朝礼の場面を切り取り、初めてここに登場させましたが、いかがでしたでしょうか。
今回⑥は、昭和も50年代に入り、軌道に乗ったとはけして言えませんが、がんさん、ふみさん、越山さん、工場長、谷代さん、の5人は心ひとつ??にして、 今日もそれぞれが何かと戦いながら日々奮闘している姿、そしてこの時代は一体どんな商売をして、ゼロから積み上げていったのだろうと…多分、読んで下さる皆さんも興味を持って下さると信じ、そんなところからさらに㈱立川徽章を知って頂こうかと考える⑥になりそうです。
卸業に徹底! スポーツ屋さんが命!
昭和50年に入り少しづつではありましたが、お得意様と呼べるお客様が増え、当時は卸を専門とし、小売はしないとがんさんは決めていました。
立川市、日野市、八王子市、東大和市、昭島市、と当初は五市を中心に営業を始めました。何よりも各地域に根付いているスポーツ屋さんはとても大切な取引先で、売上の半分は占めていたと不確かな記憶として残っています。スポーツ屋さんは各学校や各企業さんと太いパイプを持っていましたから、しっかり仕事をし、信頼してもらえれば、確実な仕事を発注してもらえると思いました。
それには……がんさんは考えました。
〔 ㈲立川徽章の商売としての位置、役割は何か? 〕 と…….。
スポーツ屋さんが各学校や企業さんから注文を受けるにあたり、当社ができる事は何なのか。スポーツ屋さんを第1に考え、それが価格勝負なのか、納期なのか、クオリティなのか瞬時に見極め、提案していく。良いアイデアを良い情報をいかに当時のスポーツ屋さんの営業マン、社長さんに伝え、スポーツ屋さんが自信をもって学校、企業さんと交渉してもらう事が㈲立川徽章にとっても重要な事なのだと、がんさんは考えました。
学校関係ですと、旗、腕章、ゼッケン、等が多かったでしょうか。既成商品は越山さん、ふみさんで対応できましたが、特注品となると見積りはがんさんしかできず、何としてでも成約させたい、スポーツ屋さんにその仕事を絶対にとって欲しいと言う思いが常にがんさんの頭をめぐらせていました。
時に同じ内容の見積依頼が各スポーツ屋さんからくる事も多々ありましたね。
当時は特別な契約書を交わしているわけでもなく、双方がけしてお互いを裏切る様な商売はしない、双方が均等な利益をもてる事が暗黙の商売、そこには根拠のない信頼関係があったのだと思います。
そんな事を感じさせる状況として、この幼稚園の廃墟には、スポーツ屋さんの社長さん、営業マンが日々顔を出してくれる様になりました。そこでは多くのコミュニュケーションが生まれ、仕事の情報やプライベートな事まで話題に上っていました。がんさんのみならず、ふみさん、越山さん、工場長、谷代さんまでが顔見知りとなって、この廃墟はいつの間にか会社としての任務を果す様になっていったのです。
【この廃墟で商売?? そんな会社と取引するなんて無理だよ…】
そんな言葉を聞いた事もなかったし、そんな気持ちにさせられた事など一度もなかったです。多分、5人の人柄がそう思わせなかったのではと…〔これも自画自賛ですが……笑.〕
それは、がんさんもふみさんもこの廃墟を恥ずかしいと思った事などなかったからで、周りにもそれが伝わったのだと思いたいです。最も、当時は恥ずかしいとか、惨めとか考えている余裕もなく、ただ、商売が出来る事に喜びを感じていた…そんな時期だったと思います。
スポーツ屋さんあっての㈲立川徽章だったこと……
がんさん、ふみさん、この気持ちは生涯忘れる事はないと思います。
がんさんの性格そのものが商売の手腕!
スポーツ屋さんとの信頼関係のみならず、㈲立川徽章の商売のやり方はがんさんの性格そのものでした。
がんさんはすべてが直球勝負なのです。変化球もなければ隠し玉もないのです。いつも真正面からの勝負です。裏工作をしたり、根回ししたり、全くしませんでした。性格的に出来なかったのだと思います。
ふみさんはちょっと??だけ思いました。
〔もっと計算して立ち振る舞えば、㈲立川徽章はもっと儲かる~ もっと大きくなれる~ 〕
いやいやそれはないと思いますよ。もし、それで仕事が増えたとして、そこには喜びよりも虚しさしか感じないのではないですか。
〔何をきれい事を…そんな考えだからダメなのよ。商売とはもっと厳しく、計算高く振る舞う事も必要!〕
いやいやそれはないと思いますよ。そもそもがんさんはそんな事できないですよ、性格的にね。
これは当時のふみさんの心の動きです。いや、ふみさんもがんさんと同じなのです。でも、一応、自分に問いただしたかったのだと思われます。
〔自分もこの商売のやり方でいいんだよね、
他のやり方などできないよね、がんさんの直球を見続けたいよね〕
ふみさんなりの心の確認だったのだと思います。
がんさんは 単純で、純粋で、優しい のです。 身長180cm 声も大きい、猪突猛進のこの男を語るのに、違和感があるかも知れません。でも、でも、でも 本当にそういう人なんです。ですから商売もおのずとそういうやり方になるし、会社もそういう会社に色づいていきましたね。
がんさんの魅力は 単純、純粋、優しい そして 行動力 ここなんです。
〔男として言う事ないじゃない !〕 ですよね。 でも人生は、商売は、こういう人を苦しめる時期を与えるのです。そんな時期は大きい事から小さな事、多々あるわけで、でもどんな時もがんさんのこの性格が変わる事はありませんでした。
40年の時を越え、今の㈱立川徽章二代目社長も、社長自身は気がついていない様ですが、この性格は受け継がれている様に思われます。ただ、単純?ではないですかね。むしろ難しい?とも違うんですよね~ う~ん
と表現ができず、ごまかしワードを使ってこの場は逃げ切りましょう。
どんなに時代が変わっても、商売の心は不変!
66歳になったふみさんも、今の社員、パートさんには時に触れ、こんな話をしています。
㈱立川徽章は、
〔ただ売れればいい! と言う商売はしたくない!〕
〔自分だけの利益を考える商売はしたくない!〕
〔自分たちが納得していない商品を売る商売はしたくない!〕
そんな会社には絶対したくない! これが㈱立川徽章の信念、それががんさんとふみさんの商売のやり方であり、時代がどんなに変わろうとネット商売に変わろうと、㈱立川徽章がここに存在する限り、この気持ちは不変であると。商売の方法は変わっても、商売に対する純粋な気持ちは変えてはいけないのだと。
下記にがんさん、二代目社長の信念の一つの考え方を記しておきましょう。
がんさんは 〔立川と言う地元を愛し、立川が発展してこそ、㈲立川徽章の発展がある〕
二代目社長は 〔自分の会社だけの発展なんて考えていない、この徽章業界全体が活気付き
発展してこそ㈱立川徽章の発展がある〕
ふみさんは この時代を越えた2人のこの共通した考え方を知った時、自分の人生そのものである㈱立川徽章という会社を心から愛おしく、また誇らしく、この㈱立川徽章を大切にしなければと思いをはせました。
会社を大切にすると言う事は、お客様を大切にする事、仕入れ先様を大切にする事、社員、パートさんを大切にする事に他ならないのです。
社長なのに、がんさん?
この章の最後に がんさん という呼び名の不思議をひも解いてみましょう。。
がんさんは㈲立川徽章の代表取締役社長です。でも前にも書いたかと思いますが、社長!と呼ぶ人も本名で呼ぶ人もいませんでした。がんさんが本名だと思っていた人もいたのではないかと思われるほどです。
誰もかれもから がんさん! と呼ばれていましたね。越山さん、工場長、谷代さんも全員、社長なのに がんさん! ふみさんに至っては夫でありながら がんさん! そしてふみさんの両親までも がんさん!
でした。勿論、スポーツ屋さんもです。可笑しいですね。当時は何とも思いませんでしたが、不思議ですね。
がんさん! と言うイメージはどんなものかわかりませんが、がんさんは本当にがんさんのイメージそのものでした。 ???ですよね。がんさん!と言う愛称にイメージがあるのかないのか……とにかく、がんさんはがんさんそのものでした。 またまた?ですね。笑 です。
そもそも、ふみさんもがんさんと言う愛称の由来を知らないのです。一度聞いた事があったのですが、どうも大学時代に仲間から自然と呼ばれる様になったとか、もしかしたら本人もわかっていないのかもしれませんね。
昭和50年代にはいり、ここから㈲立川徽章のさまざまの歴史が刻まれていく事になるのですが、昭和51年が明けてすぐ、がんさん、ふみさんに長女が誕生しますよ。商売をしながら、子育ても始まります。
子育てもがんさんの優しさがいっぱいです。
次回はそんなところからスタートさせていこうかなと考えつつ、この章を終わらせます。