【歴史編】人望厚いリーダーは律儀者だった――前田利家

 

あの織田信長、豊臣秀吉の重鎮として、徳川家康に肩を並べる存在感を示した前田利家。歴史の中の表彰にスポットを当てる『戦国武将のトロフィー術』第3弾では、加賀百万石の礎を一代で築いた戦国武将の前田利家に迫ります。人間関係を重んじ、忠義を尽くして組織をまとめ上げた姿には、世知辛い現代だからこそ学ぶべきトロフィー術がありました。

織田信長に仕えて頭角を現す

前田利家は1538(天文7)年、荒子城主である前田利春の四男として、尾張国荒子村(愛知県名古屋市中川区荒子町)に生まれます。豊臣秀吉とは生年、没年とも近く同世代の戦国武将で、親友であったという説もあります。

若い頃は短気で、奇抜な言動や派手な出で立ちをする傾奇者(かぶきもの)だったといわれた利家。当時には珍しく6尺(約182cm)もの身長があり、体格に恵まれ槍の名手でもありました。立身出世を願い織田信長に仕え、戦場で大将の命令を伝える「母衣衆(ほろしゅう)」の一人として、めきめきと頭角を現していきます。一本気で裏表のない誠実な性格であった利家は、幼名の犬千代にちなんで「犬、犬」と呼ばれて信長に大変かわいがられていたそうです。

順調な出世から一転!?

武功を次々にあげて順風満帆に見えた人生でしたが、あるとき暗転します。信長が寵愛していた少年を斬り殺したため、信長の逆鱗に触れてしまったのです。利家としては、事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして信長に吹き込む少年を見て、信長にとって害であると考えた上での決断でした。ところが、信長の怒りは凄まじく、これをきっかけに浪人することになってしまいました。この時期は、生計を立てるにも苦労したといいます。

しかし、利家は諦めませんでした。信長への忠誠心を変わらずに持ち、復帰を願って信長が合戦に出るたびに無断で参戦する行為に出ました。許しはなかなか下りませんでしたが、首級をあげる戦功を繰り返すうちに状況が変わります。信念を持つ利家に、信長はむしろ自分が悪かったと悟り、帰参を許したのでした。

後年、浪人中を振り返って、「人の不幸を喜ぶもの、様子を見にきてあれこれ言いふらすもの、さらに傷つけようとするもの、本当に支えてくれるもの――。落ちぶれたときにこそ、変わらず支えてくれる人こそ大事にするべきだ」と語ったといいます。不遇のときがあったからこそ人間の本心がよくわかったと、このとき以降、利家の性格からは傲慢さがなくなっていき、律儀者と評されるまでになりました。そして、信長の後押しで、四男でありながら長男である兄・利久から前田家の家督を継いだ利家は、信長の天下統一の勢いを受けてさらに出世していきます。

人の心をつかむのが巧み

利家は年をとるに従って、若いころの粗暴な振る舞いは影をひそめ、人の心をつかむトロフィー術のエピソードをたくさん残しています。

戦国時代には、手柄を立てた部下に褒章として自分の姓を与えるということもよくありましたが、利家はそれをしませんでした。手柄を立てたならば本当の名前が高まることを望むものだ、といったといいます。主人の名を被せるのは不本意なはずとの心づかいでした。確かに、自分の名前をあげるというのは上から目線ともいえますよね。また、人を疑うのは嫌いだとう理由から、各大名家で設けられていたお互いの仕事ぶりを監視する「横目(よこめ)」を前田家では置かなかったそうです。疑心暗鬼になるよりも、お互いに信じ合うほうがかえって悪いことができないものだという、人間の心理をついたものでした。

利家らしさを表す逸話もあります。病床につき、いよいよ死期が迫ったときのことです。利家は会計の役人を呼び、機密費を捻出した書類を持ってこさせました。役人は、何事かと思い、咎められるのではないかと落ち着かない気持ちでいたのですが、書類を確認して仕分けし、後々に担当の役人が責任を追及されることのないよう処置したといいます。死後にお家騒動を起こさないための配慮でもありますが、なかなかの気づかいです。

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豊臣政権に律儀を通して

話しは前後しますが、「本能寺の変」の謀反で信長がこの世を去ると、柴田勝家と豊臣秀吉の後継者争いが勃発。両者との間に立って去就に悩んだ利家は、苦渋の決断を迫られました。最終的に秀吉に従軍した利家は、その後、豊臣家の重臣として政権安定を図る重要な役目を担っていったのでした。

これには家康の台頭を抑えるという秀吉の思惑がありました。利家は歴戦の勇将ぶりもさることながら、律儀な人柄から、家康よりも多くの味方を集められるほどの人望を得ていたので適任でした。秀吉亡き後も、その律儀さを発揮して豊臣家存続のために尽くします。しかし、ほどなくして秀吉の後を追うように病死。唯一、家康と互角に渡り合える人望と器を持っていた利家の死は、豊臣家の終焉をつげる瞬間でもありました。歴史に“たられば”をいっても仕方ありませんが、利家があと10年生きていれば、その後の歴史も大きく変わっていたかもしれません。

とはいえ前田家自体は、徳川政権下の最大の大名として城下町・金沢の繁栄を導き、百万石の大藩を維持してきました。利家個人で見れば、加賀百万石の礎を一代で築いたサクセスストーリーの持ち主でもあるのです。